新人看護職向けコラム
ピンチはチャンス ~私の保健婦1年目~
私は長野県の保健所保健婦として1年目をスタートしました。
その頃の国家試験の合格発表は4月末でしたので4月中は臨時の保健婦として勤務し、半年は車の運転の許可が下りずに自転車が私の足となり活動していました。
4月早々に担当村へバスで約1時間かけてスーツであいさつに伺ったとき「そんな恰好で村に来るとは。次からはズボンで来てね」と大先輩の保健婦に注意されへこみながらもTPOは大事だと自分に言い聞かせ、その週の精神保健のデイケア事業でお花見があり、バトミントンなどの軽スポーツもやるとの事だったため、ハーフパンツにポロシャツで出勤しました。すると、係長に手招きされ「遊びじゃなんだからこんな格好で出勤するとは」とお叱りの言葉をいただき保健婦人生が始まりました。
事前に聞いておけばよかったと後悔しながら様々な先輩方からの指導の下ひと月が過ぎ、無事に国家試験に合格し保健婦になった5月。海外旅行帰りのグループでコレラの集団感染が起こったのです。自身の感染におびえながらの患者調査、接触者調査を行った際に、患者さんからは「なんで自分が、誰にも知られたくない」という自責の言葉、接触者からは「調子に乗ってお土産なんか配って全部捨ててやった」という怒りの言葉に対して、かける言葉も見つからず対応しました。自分の不安が先に立ち、双方の気持ちに寄り添い言葉をかけることができない自分がいました。
そして7月末には大雨による地滑り災害が担当地区で発生し、多くの命と住宅の崩壊がありました。新米の私は作業拠点の公民館で利用者への健康管理と水分補給の支援をしていました。真夏の災害で暑さへの対応に追われ心の支援まで気も回らずに冷たい水を配っていました。
保健婦1年目は次から次へと起こる出来事に、目の前のことをこなすことで精一杯でした。その後、「松本さんが異動してくると事件が起こる」と言われることが多いのは今思えばスタートからだったのだと思います。失敗含め様々な出来事が起こることで、先輩方から学び、住民の方の声から学び、その後の活動に活かされていったのだと思います。ポートフォリオを残しておけばよかったです。
最後に、1年目に担当した学生が県の保健婦となり「実習で赤ちゃん訪問に行ったときに、ものすごい坂道を自転車でスイスイと登っていくのを付いていくのに必死で、死にそうでした」と言われ「保健婦に必要なのは身体の体力とピンチをチャンスに変えていく心の体力だよ」と伝えたことを今でも鮮明に覚えています。
※2002年に保健婦から保健師へ名称変更されていますが、本稿では当時の名称である保健婦と記載しています。