新人看護職向けコラム
心理職としての新・1年目
40歳を過ぎてキャリアチェンジをした私のネオ1年目のことを書きます。新卒で入社したベネッセコーポレーションで進研ゼミや「ひよこクラブ」の編集をしていました。1995年阪神大震災が起こります。その1週間後に瓦礫の山の東灘区に取材にいき、衝撃を受けました。マスメディアの雑誌づくりでなく直接、目の前の人を助けたい、数年間の模索期を経て、「そうだカウンセラーになろう」と一念発起したのが39歳のとき。働きながら夜間の社会人大学院に通って念願の臨床心理士の資格をとり18年間務めた会社を2001年に退職。
とはいえ常勤の仕事が簡単に見つかるはずもなく、曜日によって数箇所を掛け持ちで働き始めました。1つは大学院の恩師の精神科医が主宰するメンタルクリニック。不登校や引きこもりのケアも併設施設で行っていました。新米の私はドクターの初診の診察の前にインテイク(受理)面接を担当し、必要な事項をクライアントに聞きながらまとめていったり、受付・レジの仕事もやりました。カウンセリングができるようになっても、面接室は先輩が使っていて、更衣室、物置のような狭い部屋で、エアコンもない部屋から始まりました。夏などクライアントさんと一緒に汗だくになりながら、妙な一体感も感じたり。
ボーダーライン(境界性パーソナリティ障害)のクライアントさんには、初めは「廣川先生ってステキ、私にピッタリ」なんて言われて、いい気になっていたら、たちまち、ちょっとした行き違いから豹変して「あんたに私の何がわかるか!」と罵詈雑言。主治医や受付の人にまで悪口を言われて職場で気まずくなったり。ああ、これが精神医学の教科書に書いてあった「理想化とこき下ろし」だったのか、と苦い体験学習もさせてもらいました。
リストラされた方の支援を行う再就職支援会社でも働きました。心理職なので主に中高年で1年以上の長期間失業中の方のカウンセリングです。うつ病を中心にメンタル不調になっている方も多く、「私が死んで生命保険が家族におりるようになれば」と真顔で呟く方もいました。
こうした重い話を1日5〜6人、ひとり1時間、共感を心がけて聴き続けていると、帰るときにはこちらの心身もぐったりです。帰りには近くの店でマッサージを受けてからでないと帰路にもつけませんでした。定期的にスーパービジョンや研修も受けていましたから、収入よりも自分のケアと勉強にかかる費用の方が上回っている状態も続きました。給料は3箇所を足しても会社員の時代の3分の1に減るし、カウンセリングの腕が上がる気配も感じられず。退路を絶っての決断だったものの、40歳を過ぎてからのキャリアチャンジはやはり厳しいかなと不安、焦り、弱気になったりの日々でした。
20数年たった今、あの頃の自分に何か言ってあげるとしたら。
「大丈夫、最短距離の正解なんてない。今やっていることの何ひとつムダなことはなかったよ」「対人援助職を選んだ初志を忘れず、自分を信じて」「ひとりで戦わず、支えてくれる人、頼れる人を自分から見つけることも必要」「そうして少しずつ感じられる手応え(成長実感)を大事にして」。
今どきの「タイパ・コスパ」の対極にある「急がば回れ」です。
みなさんに贈る言葉(エール)でもあります。

泣きそうになった50代半ばの1年目
