中堅看護職向けコラム
若者たちが自らの能力を引き出すとき -箱根駅伝優勝の原点-
論語に「後世畏るべし」という言葉があります。〈いまどきの若者は〉と、経験の浅い彼らを軽んじるのではなく、多くの可能性を秘めている若者らの進歩を敬うという意味です。私がこの言葉を実感したのは、現在青山学院大学で部長を務めている陸上競技部での経験からです。私自身は、恩師の前部長の指名により2000年に副部長、2007年から部長を務めています。
青山学院大学の陸上競技部は1976年に途中棄権して以来、箱根駅伝に出場できていませんでした。2004年4月、箱根駅伝に3年で出場できるようにするための陸上競技部の強化体制がスタートしました。まず、中国電力で課長職にあった原晋氏に監督就任を要請しました。彼は怪我で陸上競技を引退したこともあり、陸上競技にはやり残した無念が残っていました。しかし3年以内に箱根駅伝に出場できなければクビ、という厳しい条件でしたので、原氏も悩んだ末に中国電力を退職して退路を断ち、監督に就任しました。
しかし徐々にチームの力がついてきた3年目の2006年、1年生部員の数名が監督の指導方針に反発して退部してしまいました。一気にチームの雰囲気は暗くなり、箱根駅伝の予選会でも惨敗して、陸上競技部の強化体制を止めるべき、との声が大学内で大きくなりました。
そうした中、当時の3年生(強化体制入学の1期生)が、「監督と最後まで一緒にやりたい」と声を上げました。そこで部長と私で大学にお願いに行きましたところ、大学は学生達の声を尊重し、原監督の任期の1年延長を決めてくれました。
翌2007年、4年生になった強化体制入学の1期生によるチーム再建が始まりました。原監督と私は、1人の4年生を主将に指名しました。彼は1年次から取り組む姿勢が他の部員と違っていたからです。彼は、寮生活の改革、学生連盟との交渉も担う形になり、主将と寮長とマネージャーを兼務する1人3役状態になりました。そのため、忙しくて練習時間もろくに取れなくなり、選手として箱根駅伝を目指すか、主将としてチームをまとめるか、悩むようになりました。
主将になった彼だって、箱根駅伝で走ることを夢見て陸上競技部に入ってきたのです。それを自分から諦めなければならないのか、悩みは深くなっていく一方でした。そんな時、ある同期部員から、「走りでお前の代わりはいる。しかし、チームをまとめるのはお前しかいない」と言われました。彼は正直悔しかったのですが、気持ちは吹っ切れた、と後に話してくれました。
そして2007年10月、箱根駅伝予選会を迎えました。レースのタイムでは予選突破できる9位だったのですが、当時のルールはインカレポイントが加算されるため10位でした。ギリギリで予選突破はできず、背水の陣で頑張ってきた4年生は大泣きでした。しかし一方で、自分たちにもできる、との自信が芽生えました。結局、翌2008年の箱根駅伝予選会で本戦出場を決め、1976年に途中棄権して以来、33年ぶりの箱根駅伝出場を果たしました。
部長になった当初、恩師の前部長に陸上競技部の部長をどのように務めていけば良いか質問しました。しかし答えは一言、「あなたの思うようにやって下さい」だけでした。自問自答すること約2年、ようやく原点に帰ることが重要と気づきました。そして強化体制スタート時の原監督の覚悟と1期生主将の覚悟を思い出しました。
彼らの覚悟を決めた行動がなければ、今の陸上競技部はない、そうであれば彼らを信じ、彼らに任せよう、と思い至りました。彼らを支えるために自分が唯一できるのは、「頭を下げること」だけでした。それが今も部長として私の役割だと思っています。