新人看護職向けコラム
医療者とは何か ― 最期に寄り添った最初の100日―

研修医としてデビューしたのは1998年、都内の総合病院の内科病棟。
主治医として最初に受け持つことになったのは多発性骨髄腫の40代の女性だった。
不思議な感じの人だった。独身とカルテの基本情報には書かれていたが妻を持つ内縁の夫がいた。彼女はそれを理由に実の家族から距離を置かれ、入院時も1人だった。
現在、多発性骨髄腫は化学療法が進化し、長期予後が見込める疾患の1つだ。しかし当時の抗がん剤は副作用が強く、効果も限定的だった。彼女は既に過粘稠度症候群による様々な症状が出現していた。僕は指導医と相談しガイドラインに従って治療を開始した。
最初の治療は効果があった。
先生、ありがとう。
本当に良くなりました。
彼女はそう言って、感謝の気持ちを伝えてくれた。
しかし抗がん剤による骨髄抑制、輸血・G-CSF製剤、そして再び抗がん剤の投与。退院のめどはたたず、外出のタイミングすら確保できない。それでも病気は良くなっていると信じて、彼女は治療に取り組んでいた。
しかし抗がん剤への反応はだんだん悪くなる。
血液データは病状のコントロールが難しくなってきていることを示していた。しかし僕は彼女に治療の限界を伝えることができなかった。見栄えのよいデータを切り取り、うまくいってないように見える部分もあるけど、よくなっている部分もありますね、彼女を心配させないようにそんな説明をした。
3つ目のレジメンに進もうとしていた時、皮膚の下に小さな隆起が出現してきた。
多発性骨髄腫の皮膚病変だ。
先生、なんだかこういうのが増えてきて。
これは何?気持ち悪い。
病気が良くなっていると信じている彼女に髄外病変と伝えることはできなかった。心配ないと思うけど、皮膚科の先生に聞いてみましょう、お茶を濁して話をそらした。
3日後、彼女の意識レベルは低下した。
コントロール困難な高Ca血症によるものか、それとも極度の高タンパク血症に伴う脳循環不全か。透析チームが血液濾過を提案、指導医は脳CTを指示した。
僕がベッドサイドでこれから先の手順を考えていた時、彼女はふと目を開いて
先生、ありがとう。よくしてくれて。
そう一言、言葉残すと、そのまま呼吸停止した。
すぐに心臓マッサージを始めた。ほどなく内縁の夫が到着、彼女の病状経過を理解していた彼は、もう充分です。ありがとうございました。そう言って僕の肩に手をかけた。
はじめての担当患者、そしてはじめての死別。
僕は心マを止めると、ベッドに横たわる彼女を見た。
涙がこぼれてきた。
子供のように声を上げて泣いた。
別れの悲しさからなのか、それとも彼女を助けられなかった自分に対する不甲斐なさなのか。涙の理由はいまもわからない。
彼女の病院での最後の100日間。
彼女にとってどんな意味があったのか。家族よりも長い時間、最後の大切な時間を共にする医療者。自分の関わりは彼女にとって最善だったのか。
いまも考え続けている。

